岡山地方裁判所 昭和45年(わ)348号 判決 1972年2月09日
被告人 宮武誠之
昭一六・三・一六生 工員
主文
被告人を無期懲役に処する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、昭和一六年三月一六日岡山市西大寺河本町三四号地において宮武松男、同秋子の長男として生まれ、地元の雄神小学校、西大寺中学校を各経て昭和三一年四月薬局に住込みで働きながら岡山市立南商業高等学校(定時制)に進学したが、二学年のとき窃盗で検挙されたため、退学せざるを得なくなり、以後八百屋の店員、バーテン、自動車運転手、鉄筋組立工、塗装工、熔接工などと転々と職を変えるとともに、昭和三四年八月頃から某女と、また昭和三五年二月頃からは小林恵美子と同棲生活を送るうち、小遣銭に窮して強盗、恐喝、同未遂、窃盗の犯行を重ね、このため昭和三六年四月四日に岡山地方裁判所で懲役四年に処せられて服役し、その後も恐喝、窃盗、同未遂、器物損壊、銃砲刀剣類所持等取締法違反といつた犯行を重ねたため、昭和四〇年一二月一四日に岡山地方裁判所玉島支部で懲役二年に処せられ、再度服役したが、その後昭和四五年三月一日頃兵庫県尼崎市の浜名建設で働いていた際、同僚から現金等を窃取されるなどの被害にあつたことから、俄に稼働意欲を失い、厭世感を抱いてあてもない北海道旅行に出かけたが、再び稼働意欲を起すこともないまま、同年四月七日頃郷里の岡山に舞い戻り、かねて帰郷の際に出入りして心安くなつていた中学校時代の同窓生で岡山市中央町七番五号第二谷山ビル内においてスナック「カラス」を経営する岡渥美方に身を寄せることとなり、同月二〇日頃からは引き続き同人方で寝食の世話を受けていた者であるが、
第一、右岡渥美方で居候の日を重ねるうち次第に同人夫婦にも気がねするようになつていたところへ、同月二四日頃からは更に同人方に小林哲男が居候することとなつたため、一層同人方には居辛くなり、職を得て一日も早く同人方を出ようと焦慮し、同人に就職の斡旋も依頼していたが、同人方で無為徒食を続けるうちに、競輪、飲酒などで所持金を使い果していたことから、自ら職を探すにしてもこれに必要な旅費や当座の生活費にあてるまとまつた金員を入手する必要に迫られ、その金策に種々苦慮するうちに同年五月五日に至つて前夜岡渥美夫婦が帰宅しなかつたため、もはやこれ以上同人夫婦に迷惑をかけることはできないと考え、いよいよ同人方を出るほかないと決意し、更に金策に思案を重ねていたが、結局良い思案も浮ばなかつたことから、このうえは留守宅を探して忍び入り、金員を窃取するほかない、もし家人が帰宅して発見されたときには刃物で脅してでも金員を入手しようと考えかねて所持していた刃渡約二〇センチメートルの短刀一振(昭和四五年押第八四号の二)とともに、万一これを取り上げられた場合にそなえて岡渥美方カウンター内から刃渡約二六・二センチメートルの刺身包丁一丁(同号の一)を持ち出して手提鞄内に入れ、同日午後二時頃これを携えて同人方を立ち去り、適当な留守宅を探して岡山市内各所を歩き廻つたが、格好な家を見つけることができず、いつたんは飜意して高校時代の友人ならば無心に応じてくれるかも知れないと期待して足を向けてみたものの、自己が惨めに思われて再び金員窃取の目的を遂げるべく、留守宅を物色中、ふとかつて岡渥美とともに訪れたことのある谷山ビルを想起し、同ビルの持主ならば岡渥美が借り受けている第二谷山ビルをも所有していて谷山ビルに自ら居住するとともに第二谷山ビルを貸店舗にしていることから現金の二万円や三万円は置いてあるものと考え、即座に同人方に狙いをつけるや、同日午後三時頃同市西大寺町三六番地谷山ビル内の谷山達郎方に赴き、二階入口ドアを開いて侵入しようとしたが、施錠がなされていたため、果せず、このため、同階にある便所内に入つてしばらく時を稼いでいたが、その際いずれにしても窃盗か強盗でもする以外にまとまつた金員を入手する途はなかつたため、逮捕された場合に備えて身許が露見するおそれのある被告人宛の手紙類を細かく破つて便器内に捨てたうえ、再び谷山達郎方に侵入しようとして前記ドアの施錠の有無を確めたが、依然として施錠のままであつたため、やむなく同人方に忍び込むのはあきらめて再び市内各所に留守宅を物色して歩いたが、結局右谷山ビル以外に適当な家も見い出せないため、同日午後五時過ぎ頃、再び同ビルに赴いたところ、今度は家人が帰宅していたため、二階入口ドアが開き、しかも家人が階下へ降りて来る気配も感じられなかつたことから、素早く二階南側にある応接間に侵入すると、同間のソフアの後に身を隠して先ず軍手を着用し、靴を脱いで手提鞄内に入れて準備を整えたうえ、しばらく階上の家人の様子をうかがつていたところ、家人が間もなく外出するのを確認したことから、直ちに三階に上がると、南側居間において北東隅におかれた仏壇の引き出しを順次開けてみるなど金員の物色に努めたが、発見するに至らなかつたため、更に四階に上がり、南側の谷山淑子、享子、姉妹の部屋から同雅彦、裕康兄弟の部屋と順次物色を続けるとともに、併せて逃走路を探してまわつたが、四階においても金員を発見することができなかつたため、再び三階において先に物色しなかつた北側の食堂内を物色しようとしたところ、先に出かけて行つた家人の戻つて来た気配がしたことから、急拠四階に上がつて南側淑子、享子姉妹の部屋に入り、南西隅に置かれた淑子の勉強机とその北側の洋服ダンスとの間に身をひそめて階下の様子を更にうかがいながら種々思案するうち、先の逃走路の点検で二階入口以外に逃走路がなく、いずれ家人に発見されるのは免れないため、その際には所携の前記刺身包丁を突きつけて脅し、人質にして金員を強奪したうえ逃走するほかないと決意し、このため携え持つていた手提鞄内から刺身包丁の柄の部分を抜き出して右手につかむと、更に息をこらし、数十分間にわたつて同所に身をひそめていたところ、同日午後六時三〇分頃、妹享子を探すため、同室に入室してきた谷山淑子(昭和二八年五月二五日生)に発見され、同女が悲鳴をあげるや、即座に立ち上がりざま刺身包丁を引き抜いて腰側に右手で構え持つて同女が佇立する同室のほぼ中央南付近に進み出ながら「静かに。」と申し向けて同女が更に声を立てるのを制止しようとしたが、同女が恐怖の余り後方へ飛び下がりざま再び鋭く悲鳴をあげるに及んで、同女を人質にすることまでには思い至らないまま、同室南東隅に置かれた享子の勉強机まで追いつめて行つたうえ、同女が三度悲鳴をあげようとする気配を察知するや、これ以上同女に騒がれるときは他の家人に知られ、警察等へ通報されて逃走路を断たれるかも知れないことをおそれ、逮捕を免れる目的をもつて、とつさに同女を殺害するに至るもやむなしと決意し、刺身包丁を右手で構え持つた位置から、同女が至近距離まで追い迫つて来た被告人より逃れようとして南側のガラス戸の方へ身体を寄せようとした瞬間、正面から同女の腹部めがけて一回突き刺し、更に右淑子の悲鳴を聞きつけて同部屋へ駆けつけて来た次女享子(昭和三二年六月一八日生)が同部屋入口付近において右犯行を遂げた被告人と既に傷ついて床上に横たわる姉淑子の姿を目撃して悲鳴をあげ、身をひるがえして階下に逃れようとするや、前同様同女によつて他の家人に知らされ、警察等に通報されることをおそれ、逮捕を免れる目的をもつて、同女を殺害するもやむなしと決意し、同室北側廊下から階下(三階)に通じる階段下り口付近において同女に追いすがり、同女をとらえて振り向かせざま前面から同女の右脇腹めがけて三回突き刺し、更に同女がなおも被告人を振り切つて逃れようとするや、背後から背部右側めがけて二回突き刺し、その結果同日午後八時四五分頃同市内山下三〇番地総合病院岡山赤十字病院において右淑子をして肝臓を穿通して膵臓に刺入する、深さ約九センチメートルに達する上腹部刺創に基づく失血により死亡するに至らしめてこれを殺害し、右享子をして入院加療七五日間を要する、右気胸、肝胆嚢損傷、十二指腸損傷、横行結腸損傷、汎発性腹膜炎および後腹部血腫を伴なう右胸部刺創(深さ約一〇センチメートルのものと深さ約五センチメートルのもの各一個)、背部刺創(深さ約五センチメートルのものと深さ約三センチメートルのもの各一個)および右肘部刺傷(深さ約一・五センチメートル)の傷害を負わせたが、殺害するに至らず、
第二、前記日時谷山達郎方において、法定の除外事由がないのに、刃渡約二〇センチメートルの前記短刀一振を所持するとともに、業務その他正当な理由がないのに、刃体の長さ約二六・二センチメートルの前記刺身包丁一丁を携帯し、
第三、自動車運転の業務に従事している者であるが、前同年五月七日午後四時三〇分頃、佐野是彦所有の普通乗用自動車(岡五み二一―一七)を運転して前同市野田屋町一丁目一二番九号先国道五三号線上を北進中、当時降雨のため路面が湿潤し、急制動の措置をとるときは車輪が滑走しやすい状況であつたのであるから、危険の発生に際し急制動の措置を講じても十分その効果があるように、常に公安委員会によつて定められた最高速度以下で速度を調整して運転し、事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、漫然岡山県公安委員会が定めた指定速度である時速五〇キロメートルを超える時速約七〇キロメートルもの高速度で、疾走した過失により、前方交差点を自転車に乗つて右から左へ横断中の西村ほなみ(昭和三〇年一月一三日生)を約五一・六メートル前方に発見し、直ちに急制動の措置を講じたが、車輪が滑走したためその効なく、自車左前部を右自転車後部に衝突させ、その結果同女に対し加療二週間を要する脳震盪症、左側頭部挫創の傷害を負わせ、
第四、前記日時交差点において、前記のとおり交通事故を起し、西村ほなみを負傷させたのに、直ちに車両の運転を停止して同女を救護し、また道路における危険を防止するため必要な、自転車を路端にかわすなどの措置を講ずることなく、そのまま運転を継続して逃走し
たものである。
(証拠の標目)(略)
(被告人および弁護人の主張に対する判断)
被告人および弁護人は判示第一の谷山淑子の殺害につき、被告人には同女に対する殺意は存しなかつたのみならず、被告人が同女をとらえようとして右腰側に刺身包丁を構え持つて後ずさりして逃げる同女を子供部屋南東隅まで追い詰めて行つた際、同女が同隅のどこかに背中を押しつけた反動で前方に飛び出して来たために、偶々被告人が同女を脅す目的で構え持つていた刺身包丁で同女の上腹部を刺すに至つたもので、その意思に基づいて刺突行為に及んだものではない旨主張し、更に谷山享子の殺害未遂についても同女に対する刺突行為は認めながら、殺意は存しなかつた旨主張しているので、以下右主張をいずれも排斥した理由を示すと、次のとおりである。
先ず、谷山淑子殺害の現場となつた子供部屋南東隅の模様であるが、当裁判所の検証調書および司法警察員作成の昭和四五年五月一五日付および同月二三日付(第一冊中に編綴のもの)各実況見分調書によると、当時同室南東隅には木製の勉強机と椅子とが東向きに置かれ、南側板壁には右勉強机上に少し張り出してつり棚が設けられ、これと少しの間隔を置いて南側は二枚引きのガラス戸となつていて、その東端にカーテンが束ねられていたこと、また勉強机はつり棚の西端を基準にすると、これよりも少し東に寄つたところに置かれていたが、椅子はこれに対して少し西に出たところに置かれていたこと、なおカーテンのやや東北寄り、勉強机の前の床上には洗濯物を入れた籠が置かれていたことが認められる。
ところで淑子が受傷するに至るまでの被告人と同女との行動について、被告人が当公判廷において供述するところおよび当裁判所が実施した検証の際に指示説明するところによると、被告人は子供部屋南西隅の淑子の勉強机と洋服ダンスの間に身をひそめていたところを同女に発見され、同女が悲鳴をあげたため、即座に刺身包丁を右手につかんで立ち上がり、「静かに。」と言いながらこれを腰側に構え持つて同女が佇立していた同室中央やや南側付近に進み出たところ、同女は再び悲鳴をあげて素早く後退し、南東隅の享子の勉強机の前まで下がれるだけ下がり、この同女の後退に応じて被告人も同女をとらえるべく、同女を北西入口側に逃さないために東寄りに回り込むような形で更に追い詰めて行つたところ、両者の間隔が六十数センチメートル位になつたとき、同女は依然被告人の方を向いたまま右か左に身体をよじつて逃げようとして結局南側ガラス戸際にいくらか寄つたが、その際同女がはね返つて来たため被告人が構え持つていた刺身包丁で同女の上腹部を突き刺すに至つたというのである。そして右供述中淑子が受傷した際、身体を左側にいくらか倒していたとの点は被告人が捜査段階においても繰り返し供述しているところでもある。
しかし既にみたように淑子の背後や左右には同女を反発して前方に飛び出させるような弾性をもつたものは存在しないうえに、被告人が供述する如く、同女が受傷したのは、同女が二回目の悲鳴をあげて素早く南東隅の勉強机および椅子の前まで後退した直後ではなく、それから更に左のガラス戸側に寄ろうとした際であるならば、同女が南東隅のどこかにぶつかつた反動で前方にはね返つて来るといつた事態は有り得ないはずである。
更に右以外で被告人の刺突行為によらないで淑子が受傷することがあるとすれば、同女が刺身包丁を構え持つた被告人に追い詰められてこれから逃れようとして飛び出した際、偶々被告人が構え持つていた刺身包丁で同女の上腹部を刺すに至つた場合であるが、仮にこれを肯認すると、前記嘱託鑑定書によれば同女の創傷は腹部のほぼ中心部にあつて、しかも体表から後方に向い約九センチメートルの創洞を形成しているというのであるから、同女が被告人の構え持つていた刺身包丁に正面からぶつかつて行つて受傷したこととならざるを得ない。
しかしながら当時室内に物干竿が二本はすかいに渡され、これに多数の洗濯物が干されていて多少見通しが悪かつたとしてもいまだ明るさの残つている時刻であつて、淑子は被告人が構え持つていた刃渡約二六・二センチメートルにも達する刺身包丁は十分認識していたと思われること、またそれ故に被告人から追い詰められた際南側ガラス戸側へ身体を寄せて逃れようとしたと思われることからすると、同女が被告人の構え持つていた刺身包丁へ正面からぶつかつて行くという自殺に等しい行動に出たとは到底思われない。
また被告人が淑子に刺突を加える意思がなかつたのならば、両者の距離が接近していたとはいえまだ六十数センチメートルの間隔があつたのであるから、同女がはね返つて来た際或はぶつかつて来た際その構え持つた刺身包丁の切つ先をはずすこともできたはずであるが、被告人は右行動に出たとは何ら供述しておらず、またその形跡も認められない。
飜つて被告人の捜査段階における供述を検討してみると、被告人は逮捕後勾留尋問までは本件犯行を全面的に否認していたのであるが、勾留尋問において初めて犯行を認めるとともに、ただその態様について当公判廷におけると同様の供述をしたほかは、その後検察庁および警察での前後六回にわたる取調に対し一貫して淑子に刺突を加えたことを認めており、右供述は十分措信することができる。この点について、被告人は当公判廷において勾留尋問後の警察での取調に際して淑子がはね返つて来た旨供述したけれども、信用してもらえなかつたために、あきらめて刺したことを認めるに至つたものであり、検察庁での取調に対しても警察での供述と同様の供述を繰り返したのは供述をかえることが警察に対しても検察庁に対しても悪いと思つたからであると供述するけれども、淑子の受傷が被告人の刺突行為によるものか、はたまた同女がはね返つて来たことによるものかが被告人の刑事責任の程度に自ら大きな差異をもたらすことがあるかも知れないことを十分認識していたと思われる被告人が(既に述べた如く被告人は逮捕後三日間その刑事責任の重大さを想到して全面的否認まで続けたのである。)、勾留尋問後の警察での取調において同女がはね返つて来たことを述べ、これが容易に信用してもらえないとみるやたやすく供述を覆してその後の取調において前叙の程度の理由で同様の供述を維持したというのはいささか理解に苦しむものがある。
更に被告人は本件犯行を遂げた後岡渥美方まで逃げ帰つて同人に対し犯行を打ち明けているが(被告人は司法警察員に対する昭和四五年五月一六日付供述調書において、岡渥美ならば全てを打ち明けても裏切るようなことはせず、逃走するについても力を貸してくれるだろうと思うと同時に、親身になつてくれる者に事件を犯したことを打ち明ければ今の何んとも言えない苦しい気持が楽になるのではないかと考えた旨述べる。)、もし被告人の積極的な刺突行為によらずして、同女がはね返つて来たために構え持つていた刺身包丁で刺すに至つたのであれば、それは被告人にとつて意外な、予想せざる出来事であつたのであるから岡渥美に対し本件犯行の全てを打ち明けるに際し、当然右についても触れるものと思われるが、証人岡渥美は当公判廷において被告人が「谷山ビルへ泥棒に入つたところ見つかつて二人を刺して逃げ帰つた。刺したのは下の方である。」旨述べたと供述するにとどまり、その形跡をうかがうことができない。
結局、右の諸点からして谷山淑子をその意思に基づいて刺突したものでないとの主張は採用することができない。
そして被告人が、捜査官の数度にわたる取調に対して、谷山淑子を静かにさせようとしたにもかかわらず、同女が更に悲鳴をあげようとしたため、これ以上騒がれるときは他の家人に知られて逃げ道がなくなることから、同女をして騒がせないために同女を殺害するに至るかもしれないことを知りながらあえて刺身包丁で同女の腹部を突き刺したと供述している点は、殺人の動機として首肯するに足りるものを含んでおり、また被告人が用いた兇器の種別、用法そして淑子の受傷の部位、程度からすると、被告人に少なくとも未必の殺意の存したことはこれを十分肯認することができる。
なお弁護人が指摘するように、被告人は捜査段階において、「とつさに刺身包丁を突き出した後、反射的に刺身包丁を引いた。」、「刺身包丁を突き出すようにしたが、手応えはなかつた。」、「腹を突き刺したような感じがした。」旨の供述を繰り返しており、弁護人はこれをもつて被告人が淑子に対し殺意を抱いて刺突に及んだものではない一つの証左であると主張するのであるが、被告人は前叙の如く淑子に対する確定的な殺意を否認しているのであつて、このために他の「刺身包丁は大きくて刺す威力が強いので、これで刺せばその女の子は死ぬかも知れないと一瞬躊躇したのですが……」、「力一杯刺せば腹を貫通し即死してしまうかも知れないと思いましたので力一杯は刺しておらず……」などといつた供述とも相俟てかかる供述をしているものと認められる。
次に谷山享子の殺害を遂げなかつた点について、被告人は同女に対してはその意思に基づいて力一杯突き刺したことを認めているうえ既に姉淑子を殺害した直後でもあり、享子が階下の両親に対して急を知らせに赴こうとして廊下から階段へと走つているところであれば姉の淑子の場合以上に同女を逃してはならない必要があり、その用いた兇器の種別、用法、攻撃の回数、更には同女の受傷の部位および程度からして優に同女に対する殺意を肯認することができる。
以上の次第で、被告人および弁護人の前記主張はいずれも採用することができない。
(累犯前科)
被告人は、昭和四〇年一二月一四日岡山地方裁判所玉島支部において恐喝、窃盗、同未遂、器物損壊、銃砲刀剣類所持等取締法違反罪により懲役二年に処せられ、昭和四二年一〇月二一日右刑の執行を受け終つたものであつて、右事実は検察事務官作成の前科調書によつてこれを認める。
(法令の適用)
被告人の判示第一の各所為中、住居侵入の点は刑法一三〇条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、強盗殺人の点は刑法二四〇条後段(二三八条)に、同未遂の点は同法二四三条、二四〇条後段(二三八条)に、判示第二の各所為中、短刀所持の点は銃砲刀剣類所持等取締法三一条の三第一号、三条一項に、刺身庖丁携帯の点は同法三二条二号、二二条に、判示第三の所為は刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示第四の所為は道路交通法一一七条、七二条一項前段にそれぞれ該当するところ、判示第一の住居侵入と強盗殺人および同未遂との間にはそれぞれ手段結果の関係があるので、刑法五四条一項後段、一〇条により以上を一罪として最も重い強盗殺人罪の刑で処断することとし、判示第二の各銃砲刀剣類所持等取締法違反は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として重い短刀所持についての銃砲刀剣類所持等取締法違反罪の刑で処断することとし、各所定刑中、判示第一の強盗殺人罪につき無期懲役刑を、判示第二の銃砲刀剣類所持等取締法違反罪につき懲役刑を、判示第三の業務上過失傷害罪につき懲役刑を、判示第四の道路交通法違反罪につき懲役刑を各選択し、被告人には前記前科があり、これと判示第二の銃砲刀剣類所持等取締法違反、判示第三の業務上過失傷害および判示第四の道路交通法違反の各罪とは再犯の関係にあるので、刑法五六条一項、五七条によりそれぞれ法定の加重をし、以上は同法四五条前段の併合罪であるところ、判示第一の強盗殺人罪につき無期懲役刑をもって処断すべきであるから同法四六条二項本文により他の刑を科さず、被告人を無期懲役に処し、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。
(量刑の理由)
被告人は、少年時代から非行を重ねたうえ、昭和三六年四月四日には強盗、恐喝、同未遂、窃盗罪で懲役四年に、また昭和四〇年一二月一四日には恐喝、窃盗、同未遂、器物損壊、銃砲刀剣類所持等取締法違反罪で懲役二年とそれぞれ相当長期の刑に処せられて服役したことがありながら前刑を終えていまだ数年を出でずして本件犯行を遂げたものであり、しかもその態様たるや家人に発見されて窃取の目的を遂げえないときは強盗に居直ることを予定し、このために短刀ばかりか、これを取り上げられた場合に備え刺身包丁を携行して谷山ビルに赴いているのであり、更に同ビルに臨んでは予め逮捕されたときに身許が露見するおそれのある被告人宛の手紙類を破棄したうえ、現場指紋を遺留しないよう軍手を着用し、足音を立てないよう靴を脱いで金員の物色を行ない、しかもその際には併せて逃走路まで探しておくなど細心の注意を払つており、きわめて巧妙、計画的と言うべく、また谷山淑子が子供部屋に身をひそめていた被告人を発見して悲鳴をあげるや、これを同室南東隅まで追い詰めて行つたうえ、無抵抗な同女に対し、刃渡二六・二センチメートルにも達する刺身包丁でもつて容赦のない一撃を加えたばかりか、あまつさえ、同女の悲鳴を聞きつけて同室に駆けつけた谷山享子に対しても階下に逃れようとするのを追跡して前面および背面から数撃を浴せ、一瞬にして楽しい子供の日を暗転せしめたことはまことに残忍きわまりない。長女淑子は右兇撃によつて二時間余り後に死亡するとともに、次女享子もひん死の重傷を負い、からくもその生命を取り止めたもので、その結果はきわめて重大であると言わねばならない。被害者淑子は何一つ罪科のない、いまだ一六才のうら若い乙女で、これから将来に夢多き人生を迎えようとしている身でありながら、被告人の兇刃に倒れたもので、その無念さたるや察するに余りあり、また被害者享子およびその親兄弟たちの受けた深い心の傷痕は癒そうにもこれを癒す術がない。更には淑子、享子姉妹に対し兇刃をふるつた後も、被告人は雅彦、裕康兄弟を人質とするため、同兄弟を子供部屋に閉じ込めようとしたうえ、享子から急を知らされて食堂から出てきた谷山達郎と出会うや刺身包丁で渡り合い、同人に対し「警察へ連絡したら上の二人の命はないぞ」と申し向けて脅迫しているばかりか、再び子供部屋にとつて返すと右兄弟が姉淑子の指示で入口ドアに施錠するや、ドアのガラスを刺身包丁でたたき割つて錠を開いて室内に入り、南側ベランダから屋根伝いに逃げる同兄弟に対し「殺してやる。」と怒号しながら追跡して行つたうえ、同兄弟の「泥棒。」、「人殺し。」といつた叫び声を聞いて駆けつけた付近の住民たちからかえつて追われる身となるや、これに対し刺身包丁を突きつけてその追跡を阻止したうえ、途中民家の裏庭で犯行に用いた刺身包丁などを隠し置くとともに着用していたシヤツを脱ぎ捨てて逃走し、更に岡渥美方に逃げ込んだ後は同人から衣服をもらい受け、髪型まで変えさせて七日夜には横浜へ向けて高飛びしているのであつて、その性格たるや、凶暴悪質にして大胆巧妙である。加うるに本件犯行が地域住民に与えた不安と恐怖は大きく、その社会的反響も軽視し難いものがある。
されば、被告人をしてその重大なる責任を償わしめるためにはもはや被告人に対し極刑をもつて臨むほかないというのもまことにやむを得ないところかとも思われるのである。
ただ被告人は本件犯行においてできうることなら窃盗行為によつて金員を得ようと考えていたこと、また谷山淑子、同享子姉妹を殺傷すること自体を当初からもくろんでいたものではなく、事態が被告人の予期していたところと反する方向で急速に展開して行く過程で思わず平静心を失い、いわば突発的に右姉妹に兇刃をふるつたもので、右に関する限りでは偶発的犯行と言つてもよいこと、それも金員強奪の目的ではなく、逃走路を断たれるのをおそれるの余り、逮捕を免れる目的でもつて兇刃をふるつたものであること、更に淑子に対しては一撃しか加えておらず、また数撃加えた享子の場合にも幸いにして一命を取り止めていること、そして結局金員奪取の目的は遂げていないことなどの事実は被告人にとつて僅かながらにも救いであると言うことができる(なお被告人は捜査官の数度の取調に対し、享子に数回にわたつて兇撃を加えるに際して同女を即死させることをおそれ、右体側を狙つた旨供述しているが、医師山本雅彦作成の診断書添付の同女の受傷部位図によると、創傷はおおむね右体側に集中しており、これをもつて全く虚偽のものとまではなし難い)。なおまた、被告人がそもそも本件犯行を企てるに至つた遠因とも言うべきものは、被告人が犯行前二ヶ月程前に兵庫県尼崎市の浜名建設で働いていた際同僚に現金二万円とテレビを窃取されたうえ、その二週間ばかり後にも被告人が広島県福山市で受けた交通事故の被害の示談金として被告人あて送金された現金五万円が被告人の手に渡らなかつたことから、俄に稼働意欲を失い、厭世感まで抱いた結果、無為徒食するようになつたことにあり、その心情は理解し得なくもなく、更には被告人は郷里岡山に舞い戻つた後行くあてもないまま岡渥美方で寝食の世話を受けるうち、いつまでも同人の好意に甘えているわけにはいかなくなり、一日も早く同人方を出ようと焦慮し、このため同人に対し就職の斡旋も依頼していたが、適当な職に就けないまま犯行当日に至つて前夜同人夫婦が帰宅しなかつたことから、もはやこれ以上迷惑をかけるに忍びず、同人方を出て自ら職を探そうとして、これに必要な旅費と当座の生活費を得るため、本件犯行を企てたもので、その悪性もとより浅からざるものがあるとはいえ、そこにはいまだ僅かながらも他人の生活に対する配慮や勤労意欲の残存を見ることができるのであつて、今直ちに被告人に対して救うに途なき極悪非道の人間と烙印しこの地上から抹殺するほかない反社会的存在であると断ずるにはなお幾分の躊躇を感ぜざるを得ない。そこで今被告人を極刑に処するよりも無期懲役に処し、終生定役に服さしめ、自己の犯した罪の償いをさせるとともに非業の死を遂げた被害者の冥福を祈らせることとした。
よつて主文のとおり判決する。